Why do we insist on English?

 

授業でこのビデオを見た。

Patricia Ryan: Don't insist on English! | Transcript | TED.com

 

アメリカに留学して、また日本にいたとしても、英語ができるということ=チャンスを開いてくれることであり、かりに能力が等しく、またはアメリカ人の相手が劣っていても、英語が堪能なネイティブの学生がどうしても優れてみえたり、へりくだっている日本人も何人も見たことがある。

 

とくに私たち日本人には、歴史的なことが原因か、その傾向が強いのではないだろうか。

しかし、本当に英語ができるということは人間として優れているということに直結するのだろうか。英語能力の差によって個人そのものの能力をはかるようなことははたして正しいのか。スピーチで彼女はこのように述べている。

 

I love it that we have a global language. We need one today more than ever. But I am against using it as a barrier. 

 

特にこのスピーチのなかでは、トップスクールなどに代表されるように、世界のすぐれた高等教育機関が英語圏に集中しているために、英語圏以外の者たちはその言語能力による足きりが、優れた人材を養成できないということを示唆しており、さらに彼女は英語だけでない言語の多様性を重んじるべきだというようなことを続けた。

 

彼女が例として出している、アインシュタインはどうかわからないが、国際的に通用するほどの能力をもったひとは、語学や英語の勉強にも秀でているという人が多いだろうし、単純に学術結果をまとめたり効率化するためにも英語という共通語とは必要だとは思う。

 

 

しかし、おおむねこの人の言っている、英語(語学)能力と人間そのものの能力はイコールではないということ、そして高額なTOEFLをはじめとする、英語(語学)教育にかけられるお金がその人の未来を決めることに対する疑問に関しては、とてもうなずける。

 

もちろん、彼女が提案するように、言語をリスペクトすることに重きをおいて、何か国語もを用いて学術研究をすることの非効率的さ、および、能力をはかるうえで高い外国語能力をもつということはひとつの大きな尺度である、ということは間違いない。

 

さらには、外国や他の言葉にたまたま興味がなかったり、好きでなかったり、なんとなくもしくは強く自分の国が好きであったりするなどの理由で、一生自分の国から出ない、そして外国や英語にすすんで触れたりすることがないという人もたくさんいるだろう。

 

そして、そういう人にネガティブな印象を抱くことはきっと個人がどういう環境で育ってきたかによるし、1回につき2~2.5万前後の高額なテストであるTOEFLやIELTS、そしてその教材やテストのための英語教育ビジネスに代表されるように、語学能力の習得にかけられる資金などもやはり、学生世代だとしたらなおさら個人の環境によるだろうし、それらの要素によって、非英語話者の将来の選択肢であったり、語学能力やその経済事情が原因で、あったかもしれない未来が失われることは、不本意なことかもしれない。

 

そのようなことを、英語のネイティブスピーカーである彼女が言っていたことに対して、私は非常に心を動かされた。

 

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ここからは自分の経験にもとづくかなりの偏見も含まれているだろうが、上にのべたように、英語に限らず、語学教育を受けるという選択はおおむね決して経済的な選択ではない。

 

大学に入る前の語学学校に行く場合の学費だって、自分の国で学ぶにしろ、留学先で学ぶにしろ、何度も言うが、安くはない。

 

実際に1年すべて自費でアメリカに語学留学から大学留学をするには400万円以上かかるのではないだろうか。

 

国やその他の機関から奨学金を受けられる、一握りの生徒を除いてほぼ自費であるだろうし、大学にストレートに入ることができなかった、金銭的に危機感やモチベーションのない裕福なうちに生まれ、高額な資金をつぎ込んだにもかかわらず、やる気がなくていつまでも語学がのびない、そして試験や語学のカリキュラムなどを何か月、何年もパスできない人も少なからずいる。

 

そういう学生のイメージに代表されるように、低い語学能力がそのままその人本人の能力かと錯覚するような事例は現実にありうるし、語学能力だけでなく、その真逆である運動能力などの人間の全ての能力に通じる『忍耐力』とか『集中力』などにおける欠如も考えられるため、100%そうでないとは言い難いだろう。

 

しかし、そうはいっても根本的にはあくまで語学能力においての話であり、その人がその先にどのような可能性があり、ほかの面で能力を持っているかは、それらの結果だけではやはり測れないのだ。

 

とくに、語学能力はその人の経済事情だけでない、生まれ育った環境や、好み、先天的なものが占める部分も多く、差ができやすい分野でもある。

 

語学が高等教育とか就活の足きりになるというそれだけで、非英語話者がのどから手が出るほどほしい『英語のテストスコア』それをさも慈善事業のように、さらなる人生の発展など夢にあふれた文句とともに、ビジネスとして目をつけること、そういった世の中も背景にあることも要因だと考えられるだろう。

 

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私は、副専攻の日本語教員養成課程で、アメリカに留学に来る直前まで実習生として日本語を半年ほど教えたり、語学学校を訪問したりした経験がある。

 

日本の語学学校で学んでいるひとの中には、趣味や、仕事や結婚による環境のために勉強している人のほかに、日本の高等教育機関、つまり大学や大学院などの入学をゴールとして日本語の入学試験および語学試験のため、とくに、高校卒業後に来日して日本語を学んでいる人がほとんどを占めていたことが印象的で、データでは、日本語教育自体の目的は多様化しているのだろうが、これから日本の大学などで学びたいそして仕事をしたいなどというたくさんの学習者たちと出会った。

(参考:国際交流基金 - 日本語教育

 

そして、やはり日本語の語学教育だって高額な資金が必要にもかかわらず、とくに経済的な面などで危機感がなくて、語学のレベルがいつまでも上がらないなどの問題がある学習者もたくさんいた。

しかし、あくまで日本語教員のたまごとして見る限り、様々な国から来日している、異なる母国語を話す生徒たちと触れ合ううえでわかったことは語学能力だけであり、その人自身の能力を正確に知ることができたかといったらまったくそうではない。

 

語学教育とは、先人たちそして研究者のおかげで大変よく線上カリキュラムができあがっている分野であり、例外などを覚えねばならないにしろ、必ず学習する上での決まり事があるため、基本的には、人に差はあれど『記憶力』などのいたって単純な能力を中心に、努力やかけた時間、集中力そして、なるべくその言語に触れようとする差によってできあがっていくため、ほかの運動や専門分野の勉強能力のように比較的特別な才能は必要ないように思う。言い換えると、お金をある程度かけて勉強できる環境にあるならば、語学が向上しないということは、できる努力を怠っているだけだとは個人的に思う。そしてそれはその人の今後の進路における成功にも通じるだろうし、これもまた語学能力がそのままその人の能力を反映しているように見えるというスピーチで挙げられている問題の一つの要因であろう。

 

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時間・金銭・労力をかけはるばる来日し、日本の大学に留学したい、日本で職をみつけたいという生徒たちをみていて、うれしく思うと同時に、日本の大学で提供される教育や分野別のスキルがそれだけ高いということは単純に自分にとって改めて日本という国に生まれたことを誇らしく思ったと同時に、なぜ私は日本ではなくアメリカにわざわざ学びに行くのか、という根本的な留学のモチベーション、すぐれた研究機関、教育環境で日本の今いる大学で学べないことを学ぶんだ、というを思い出させられた。日本の大学に行きたいという学習者と向き合いながら自分はアメリカに留学にこれから行くという板挟みのなかで日本語教育にたずさわった経験は、基本的には語学能力と本人の能力は等しくない、その考えこそ私に残してくれたが、将来を決定するという人生に関わる、教育の分野で大きくビジネス化された語学教育において、非自国語で教育を受けるという選択をするうえで、語学試験と経済事情の足きりは、現時点では100%間違いであるとも正しいとも言い難い。

 

だが、全体を通して言うと、スピーチタイトルのようにどこの言葉の力が個々の環境や国で力を占めているからといって(日本なら日本語、アメリカなら英語のように)、マジョリティだからって、それが話せるネイティブスピーカーであったり、言語能力が優れているからそのひと能力がそのまま高いというのは錯覚で、へりくだることなく、自分に持っている能力で競争し、知識を共有して、高めあえる世界になればいいなと思う。

 

しかしながら、アメリカのひとりの留学生として、あくまでその過程におけるのツールである英語を磨く努力もまた、続けていきたいものだと思う。